読み手の欲望を言語化する小説家、村上龍―[書評]村上龍『エクスタシー』

 村上龍『エクスタシー』(集英社)を読んでみた。うーん、エロい…

エクスタシー

エクスタシー

ドラッグ・セックス・アルコールな世界観に吃驚しましたというのが率直な感想だけど、じゃあなんでこう感じるのか、考えてみました。

①映画的な描写

②憧れと恥、女性崇拝

③自他の境界と人称の違い

 

 村上龍の作品でこれまで読んだのは、

小説だと『五分後の世界 (幻冬舎文庫)』、『ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界 2 (幻冬舎文庫)』。絵本だと『the straight story ストレイト・ストーリー』、『シールド(盾)』、あとはエッセー集『誰にでもできる恋愛 (幻冬舎文庫)』くらい。うーん、マイナーだね…

というわけでこれまで読んできた作品がどれも割と大人しめでお行儀のいいテーマだっただけに、『エクスタシー』の世界観に吃驚したのだけど、そもそもwikipediaによれば、村上龍という作家のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』はかなりヒッピー文化に影響を受けているそうなのである。最近の代表作『半島を出よ』(半島を出よ (上)/半島を出よ (下))やメールマガジンJMMで政治経済を論ずるおじさんからは想像もつかないのだけれど、村上龍という作家は若い頃やんちゃだったのだ。最近だとドラッグ・セックス・アルコールが出てくるものと言えば、出始めのころのケータイ小説か金原ひとみくらいだろ、と思っていたのだけど、村上龍もそういう路線の人だったのね。道理で芥川賞の選考で金原ひとみを評価するわけだわ、と思ったり。

 

①映画的な描写

<以下本文p248より引用>===========================

「わたしには」

 レイコは一言ずつ、区切って話す。

「先生がどんな人なのか」

 区切って、カクテルグラスを見つめる。

「わかりません、でも」

 カクテルグラス、

「いつか、それでいいんだと先生が言ってくれました」

 空のカクテルグラス、

「自分にも、自分はわからない」

 重く透明なウォッカがトロリと内側の表面にはまだ残っている足の長いカクテルグラス、

「自分のこともわからないのに、人のことがわかるわけがない」

 カクテルグラスの足を人差し指でそっとなぞる、

「わかっていると思っているバカがこの世の中を醜くする」

 レイコの指、

「不安に耐えられない奴らだ」

 細いけど、強そうな指、

「わかることもあるよ」

 指の動きが止まる、柔らかいけど硬く、のびやかでもろく、ざらざらとしていてなめらかで、舐めると甘くてにがく舌を刺して何の刺激も感じさせない、指の腹のカーブは今まで見たことのあるどんな指とも違っていて、目が痛いほど真っ白に見えて小麦色にも黒にも見えることがある、爪は尖っていてまるでガラスのように硬そうだが何かに触わると簡単に折れそうでもある、爪に縦に走る線もひどく不安定そうだがどんな拷問にも耐えるだろうと思わせる、爪をはがす拷問と爪が肌をやさしくすべるところを同時にイメージさせる、爪と皮膚の境目にある半月の形をした白い部分がゆっくりと呼吸をしてふくれ上がったり消えてなくなったりしているような気がする、指の表と裏にある皺までがあらゆる恥を拒否しあらゆる恥にまみれているようだ、レイコの指、ずっと見ているとそれが白だったのか、からだのどこの部分なのかわからなくなる、指という言葉が宙に浮いてしまって、器官としてこちらにイメージを強要してくる、こんな指は見たことがない、これに比べたら、カタオカケイコの完璧に細く長く美しい指だって絵に描かれたような匂いのない抽象的なものに思えてくる、この指が、と想像しただけで、刺激の強さに吐気がしてくる、この指が、欲情して何かを握ったり、摑んだりするところを想像すると、全身の神経の末端が小刻みに震えだしてしまう、意志の力を感じる、

 <引用終わり>================================

 『エクスタシー』を読んで驚いたのは、ラリってる登場人物たちを描写する目が鋭いこと。

まるで映画のワンシーンのように読み手の焦点を限定し、視線を誘導しているような描写。

カメラの焦点距離を調整するようにピントを徐々にずらしていく。その執拗な描写は時に冗長でもあり、一方でさっと視界に入っただけで脳裏によぎる連想をそのまま紙面に落とし込んだような感覚を読み手に与える。精密なカメラでズームするようにしつこくしつこく描写されると、まるで虫眼鏡越しにその物を見ているような感覚に陥るけど、そういう描写をすることでやたらと臨場感があるのだ。登場人物たちと同じ部屋にいるんじゃないか、というくらいの臨場感。

映像的な小説だな、という印象です。

②憧れと恥、女性崇拝

 村上龍という作家で特徴的だなと思うのは、作品に出てくる固有名詞が一々高級だよな、ということ。つまり、イタリアン・チェーンのミラノ風ドリアとかコンビニのチキンは絶対出てこない。出てくるものは大体高級品でみんなが憧れるようなものだ。村上龍の作品世界は読み手の憧れを誘導することでできている、と言ってもいいかもしれない。

 欧米へのあこがれ、高級なものへのあこがれ、危険へのあこがれ、快楽へのあこがれ。作品でしばしばでてくる強い快楽をもたらすドラッグや、美女とのセックスは、すぐさま読み手を憧れの世界へ引き込む効果を持っている。一方で、あまりに庶民臭さ・生活臭を排した文章からは、逆にそうした「ハイソサイエティ」な生活への憧れという生臭さが染み出している。それは丁度、上等なワインをかぱかぱ空けて、上品な女性といちゃいちゃして…という小説の編集者が昼も夜もなく仕事していて、そんな生活とは無縁だったりするのに似ているかもしれない(あくまで想像です)

 Wikipediaによれば村上龍はヒッピー文化に憧れ、福生市でドラッグとセックスに明け暮れる若者たちを描いた『限りなく透明に近いブルー』を書いたそうだけど、この『エクスタシー』もNYやパリなど、所謂「ハイソ」な街、世界に認められた場所、ダサい日本よりもかっこいい場所にはかっこいい人たちがいて、主人公はその人たち憧れながらも、かっこよくない自分と引き比べて劣等感を感じつつ、彼らに振り回されていく。

 憧れとは裏返せば劣等感である。そして、劣等感はそのまま恥という感情につながる。作中でヤザキとカタオカケイコが女たちをドラッグ漬けセックス漬けに堕とした手法も「自分はなんて醜くてだらしがないんだろう」という恥の感情を起点としていたけれども、読み手はこの作品を読み進めるうちに、自らの日常を作中の人物たちのハイソな生活と比べて恥じてしまう。

うーん、日本人ってよく「世界の~」って枕詞つけて凄い凄い、って言ったりするけど、村上龍は僕らのそんな欧米至上主義をくすぐってきているわけですね…! 

作中の主人公はカタオカケイコに支配されたいと望んでいたけれども、村上龍谷崎潤一郎に似た思想の持ち主ではないだろうか、と思う。恥と女性崇拝、この2点において両者は共通している。魅力的な女性が現れて、主人公の男はひたすら彼女を崇拝する。この構図は谷崎潤一郎『痴情の女』や『春琴抄』でも同じ。ただ谷崎は舞台を大正時代や現代に設定し、村上龍は80年代に設定している、違いはそんなところじゃないだろうか。ヒッピーを気取ったりして若者っぽく見えるけれども、ハイソ村上龍と変態親父の谷崎潤一郎は似ているのである。

③自他の境界と人称の違い

 この本を開いて思うのは鍵カッコつきの会話文が少ない、ということ。見開きで見たときに「」の行があると、アクセントというか地の文章がぎっちりある中でいい骨休めになるものなんだけど、この『エクスタシー』では地の文のほうが割合多くて、むしろ地の文の中で主語が変わる。主人公の独白だと思っていたら途中からカタオカケイコが語り始め、カタオカケイコの語りの中でホームレスの男ヤザキがしゃべり始める。もう何が何だか…という感じなんだけど、それだけではない。この作品の構図として主人公が超控えめなのである。そもそもストーリーがカタオカケイコ、ヤザキ、レイコから話を聞いてこいという指図を主人公が黙々とこなすという話だから当然なんだけど、主人公が話すシーンが少ない。それどころか、主人公はエックスやコカインでラリったりしながら話を聞いているうちに、主観的な見方を忘れ客観的な見方(読み手と同じ目線)に徹するあまり椅子と同化したりする。

<以下本文p89より引用>============================

 あの脚になろう、と僕は思った。妙な感じでそう思った。そのアイデアが自分の中に湧き上がったのではなく、どこか宙に漂っていて僕に引っかかったようなそんな感じだったのだ。ずっと椅子を見続けて、主体的な考えとかもともとそんなものはなかったのではないか、アイデアにしろ意志にしろ自分で産み出すものではなくて向こうからフラフラとやって来て自分に引っかかるだけなのではないか、とそう考えた時、何かがベロリと剥がれた。

(~中略~)

催眠術にかかるとこんな風になるのだろうかという風に動けなくなり、椅子の脚が、僕の中に入って来た。まるで僕が欲情して足を大きく開いた女で、椅子がペニスであるかのように、あるいは、僕は切開された肌の下の腐った用なしの肝臓でそれに向けてメスやピンセットが侵入してくるかのように、椅子が僕を支配したのだった。僕は、モノになった。不思議なことに、モノになると、恐怖が消えた。カタオカケイコの言葉は、ヒトが話すモノローグではなく、部屋全体が奏でる物語として、耳に入って来た。

<引用終わり>=================================

そんなわけで村上龍の小説を見てみると、人間の欲望を上手く言語化して読み手を引きずりこむんだなーという気がしました。同世代同姓のライバル、村上春樹同様のアメリカ大好きではあるけど、村上龍のほうがギラギラした肉食系な感じ?今回はこのへんにして、また他の作品も読んでみようと思います。ではでは。